大角設計室のブログ

おだやかなくらし。刻が染み込む家をみんなで創ります。

ありふれた美

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昔「民藝」という言葉をつくり
広く民衆がつかってきた工芸品を大切にしようと訴え続けたデザイナーがいました。
柳宗悦さんという方です。

高度経済成長時代の中で、経済性・合理性の名のもとに
蓄積されてきた民衆の雑器や衣服・食・民家などの文化が簡単に淘汰され
ありふれた美が、ないがしろにされはじめていました。
そういった風潮を危惧し
デザイナー達が、もう一度民衆の工芸の価値を
広く世の中に問うた運動を展開しました。


よくこの「民藝」という言葉は曲解されますが
意味として「民衆の芸術」をさすわけでは、決してありません。
むしろ日常雑器などの芸術とは無縁の「民衆の工芸」を意味します。


このいわゆる「民芸運動」が光を当てたかったモノとは
 ありふれた美 こそが 真の美なのではないか? 
といった問いかけです。


そんな事を考えていると、ほんの少し前までは
当たり前に使用されていた曲がった丸太も、建築界では絶滅危惧種扱いです。
素朴な丸太を如何に建築用材として仕立てるかの技術は
将来に受け継ぐべき庶民の為の工芸技術です。

でも、まっすぐな材料が取れる訳だし、私達困らないじゃないの?と
思われるかも知れませんが、
簡単に切り捨ててしまうと、莫大な美の蓄積の上に成り立つ
木造文化の資産は二度と日本人は手に入れる事が出来なくなります。

知らず知らずのうちに自らすすんで宝を無かったものにしてしまいます。
そうならない為にも、私達は美について知らなければなりません。
自分達が失ってはいけないものは何なのか?

それは別に特別な物ではなかったハズの、ありふれた美です。







ただただ、刻み込む事で、機械で製材するのとは違い
無駄無く、肉厚のまま材料として使用出来ます。
最小限に手を加えられた丸太は、微かな陰影をまとい
手仕事の温かみのある爪痕と自然な膨らみが同居する様が美しいのです。


ただキザムという技術がこんなにも至高の領域に達するまでに
どれほどの歴史が必要だったのでしょう。
老体に鞭打って丸太にチョウナをかける一枚目の写真の姿が
どの民家にも染み込んでいた時代があったのです。

ほんの

ほんの少し前までは。 

当たり前のように。





そして、ここ静岡にはもう一つ
刻むことの芸術的な一品があります。
辰金本店「キャベツカツ丼」。


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ゆあさ