大角設計室のブログ

おだやかなくらし。刻が染み込む家をみんなで創ります。

見えるもの。見えないもの


古い家を見に行きました。
実測していてつくづく思うのですが、
この家、綺麗です。もの凄く。


実測の休憩の合間に住まい手の方に話します。
「この家は本当に美しいですね!」
すると施主の方はすこし驚かれ…‥
「そうですかね?汚くて少し恥ずかしいです」と恐縮されています。

わたしがこの時点で述べた感想の「美しい」は
掃除が行き届いているといった衛生的・物理的な綺麗さではありません。
この「美しさ」はまったく別次元の
「時間を超えて行ける美しさ」を差します。
一時の埃に汚されて、みえにくくなっていますが、確かに輝いています。

所員になりたての頃は、この民家のような屋根の重なりの美しさには
まったく関心がありませんでした。

模型をつくりながら、なんで所長はこんな屋根を重ねたものを
わざわざつくるんだろうと不思議に思ったものです。




日本の建築に宿る美しさはナゼだか、
「目に見えているのに、見えません」
ナゾナゾみたいですね。

ナゼでしょうか?

考えられる原因のひとつとして挙げるとするなら、現代人にとって美しさとは
「衛生的」=「綺麗さ」だからです。
例えるなら、雑誌をにぎわす真っ白な無菌状態の住宅。
その人を排除したような、体温を感じることが難しい商品を世間はモダンと呼びます。
例えるなら、スーパー等で過剰に商品に施されるラップ。
外国のマルシェなどとは大きく違う、日本独特の衛生感覚。


一方日本的な美しさとは
「清らかさ」=「美」であり、衛生的とは微妙にニュアンスが違います。
例えば、「清めの塩」「打ち水」「白装束」などでしょうか。
基本的に、清める行為をしたとしても科学的にはほとんど環境は変質せず
衛生的にも物理的にもたいした効果を生まないでしょう。

ですが、私達はその行為の 後と前 では不思議と
目の前の世界が、違えて見えてきたりします。


先ほど、現代人の概念は
「衛生的」=「綺麗さ」だ、と述べましたが、これがなかなか厄介です。
時を経たものは、物理的にくたびれ、色褪せ、汚れます。
そうした要素がチリと積もると、文字通り日本的な美しさは埋没してしまいます。

このことが、民家のような時を纏う建物を
ただの汚い廃棄物として、無価値なものにしてしまっています。





建物からは、なんて事無い
しかし、美しい風景が望めます。

住まい手は、この風景は「大好き」だとおっしゃっておられました。
美しく広がるレンゲ。
おそらく、季節ごとに変わる風景は目を楽しませる事でしょう。
人間は、変化するものには、比較的目と心を開くことができます。

一方、建築の変化はなかなか見えません。
その美を住まい手と共有出来るようにすることは、
設計者の仕事のような気がします。

「見えにくく」はありますが、実際には「その美しさは建物に宿っている」わけですから
きっと、私が見えるようになったように、
共有しあうことが出来ると思っています。


ゆあさ