大角設計室のブログ

おだやかなくらし。刻が染み込む家をみんなで創ります。

美しいはどこから?いつから?


古い建物を直しています。

そんな時に、何気なく工事中撮ったこの写真。

皆様は美しさを感じるでしょうか?


いつもは、ブログ用に少し気取った写真を載せますが
今日はあえて、イマイちな写真を載せています。


そうです。美しい感じなんて、ほぼ「ない」ですよね。




では
質問を変えましょう。


「この家は美しくなおりますか?」


そうたずねられて、あなたはどう答える事ができるでしょうか。
ほとんどの建築関係者は、こう答えるでしょう。


「はい、勿論直りますよ。」と。





工事がはじまって行くと、民家の運命は二つに分かれます。

一つ目は
建っていたときより、綺麗にはなったけど「美しさを失う」民家。

残念ながら圧倒的な数の民家がこの運命を辿ります。
「はい、勿論直りますよ。」といったプロ達の手にかかってもです。



二つ目は
息を吹き返したように「美しさを増し加える」民家です。

適切な人が、適切な手をかける事で、
それまで眠っていたものが、新たな意味や価値を与えられ
深く沈んだ魅力が溢れてきます。



その二つの運命は一体どこにちがいがあるのでしょうか?



デザインとは大勢の人に美しさを伝える翻訳のような仕事です。
だから、雑誌やテレビで紹介されるデザイナーの関わった民家は
「わかりやすい格好良さ」で溢れています。


多くのプロが「はい、勿論直りますよ。」と答える事が出来るのは
こういった、有名な再生事例を幾つもストックしているから
「「わかりやすい格好良さ」=自分でも、たやすく真似出来る」と思うからです。

でもそれは、とても危険な考え方だと思います。

なぜならそれは、マネキンにメイクを施す練習をしているようなものだからです。

つまり、Aさんの顔にもBさんの顔にも、おかまい無しに同じメイクを施すのと同じことではないでしょうか。
本人に似合ったメイクを自分で悩み、考えて施すのではなく
雑誌やテレビで見た、カッコいいと思った(思われがちな)、誰かの顔に施されたメイクをそっくりそのまま
真似っこして、なんとなく施す。
ガッキーの切り抜き写真をもって、美容院にこの髪型にしてくださいと頼んだら
カット終了後、あら不思議、阿佐ヶ谷姉妹の出来上がり。何てことになりかねません。
(僕は阿佐ヶ谷姉妹が大好きです)

同様に民家は「民芸調」「和モダン」「古民家再生」「リノベーション」といった
ありきたりな、曖昧なコトバによるデザインの化粧を施されます。

全国の個性的な美しい民家は
美しいという噂の有名ブランドの、サイズの違う服を無理矢理着せられた
アンバランスで、ありきたりな、無個性な民家へと変身を遂げて行きます。


私達大角設計室のデザインも、メディアにしばしば取り上げられ
そのデザインを真似しているデザイナー達も時に見かけます。
「焼杉板」「モザイクタイル」「列柱」「襖の意匠」「格子」など
表面的にデザインをかっさらっても、どこかチグハグなデザイン民家になってしまっているなと思っています。




では、美しい民家は、どこから生まれるのでしょうか?


デザイナーの手によってですか?

大工さんによってですか?

セルフビルドによってですか?


先ほどの文章に私はこう書きました。
「息を吹き返したように「美しさを増し加える」」と。
ここに、答えがあります。


そうです、
目の前にある朽ちかけた直す前の「民家そのもの」が
もう「既に」美しいのです。



解体工事に立ち会って、一枚一枚不要なブリキや新建材がはがされ
民家の創建当時の姿、つまり、オリジナルが建ち現れて来ると

「本質的な美しさ」が民家に眠っていたことに気づきます。

今回の民家は、そのもともとの美しさの強度がとても大きくて
僕自身も、正直読み切れていなかった程の美しさです。

とても、恥ずかしく、とてもショックでした。


下手をしたら、本質を見ずに過去のデザインの引き出しから、
使えそうなデザインをヒョイヒョイと取り出して完成さしていたかも知れませんでした。

この民家と向き合うことなくデザインを施してしまうところでした。


図面ができている状態でさえ、
民家のまえに真摯に立つことが如何に大切かを思い知らされました。




本当に施すべきデザインは「既に美しいもの」と向き合う勇気と謙虚さから生まれます。

呼吸をするように、あたりまえに、無意識に美しい。

そんな民家としばらく格闘がつづきます。





ゆあさ