大角設計室のブログ

おだやかなくらし。刻が染み込む家をみんなで創ります。

2022年、打合せの朝に

肌寒い事務所のトビラを空けて、

静かな朝日が差し込むテーブルの上に模型と図面がおかれています。

 

 

打合せの朝は、ちょっと緊張して、

昨晩まで調整したはずなのに、

プレゼン資料を見直して、

模型も、もう一度覗き込んで、

 

「よしよし、いい感じ。」と、

提案するプランに自信を取り戻して自分を鼓舞し、

さぁ、がんばるか!と事務所を出ます。

 

 

 

今年も何百回この時間があっただろうと、しみじみ、歩みを振り返りました。

 

 

 

 

全てのプレゼンをお届けしても、

その全てが実現に至るわけではありません。

 

 

私たちの力不足で、住まい手の希望に沿えないこともありますし、

朝まで創った力作が、技術、時間、予算、法規等の関係で

実現できないコトもあります。

言葉を尽くしても真意が伝わらないコトもあります。

時に予見しえないことで、大幅に変更を余儀なくされることも日常茶飯事です。

 

 

それぐらい「設計というしごと」は、「実を結ぶのが難しい」仕事なんですね。

 

でもそれは、イコール「報われない」という事ではありません。

なぜ、そう言えるのでしょうか。

その答えは「設計という仕事の意味」に大いに関係があります。

 

 

設計という仕事は「種をまく」仕事だと、若いころは思っていたのですが、

今は少し考えが違います。

 

わたしの個人的な結論としては「設計とは何か?」と問われれば、その答えは

「種を見つけ、育てる」ことを指すのだろうと思います。

 

 

その考えのきっかけは、約10年前に東北での仕事を始めたころに遡ります。

 

 

東日本大震災で、津波で流され、

瓦礫の海を一歩一歩乗り越えようとする町に建築を建てる上で

何を私たちは、この地に建てることが出来るのだろうと考えた時、

私たちは「一軒の古い蔵」を東北地方で見つけ、移築、再生しました。

 

 

 

出来上がったものは、

「メイドイン東北」「これぞオラが町の自慢の建物」と、言った具合に

本当に大勢の方から反響をいただき、

心の奥底から「共感」をいただくことが出来ました。

 

 

その共感が生まれた背景は、「民家」という各地の風土に育てられたデザインが

しっかりとこの建物のベースにあるからだと思います。

 

 

 

 

 


つまり、私たちが、「とってつけたデザイン」を施したのではなくて

そもそも「ここの地に眠っていた、デザインの種」を掘り出して

再びこの地でお客さんたちと一緒に育て上げました。

 

 

 

震災をテーマに扱っている、大ヒット映画「すずめの戸締り」も

意味合いは全然違うのだけれど、同じような考えのシーンがあるなと見ていました。

 

錆びれゆく郊外の、美しくあったであろう場所に、風景がほころびようとしている時、

災いのトビラが開くわけですが、

「その扉は、そこに関わる人々の想いで支えられている」という表現が出てきます。

 

 

人が日々の生活を丁寧におくることは、時代の移り変わりのスピードについていけず、

目につかない・気に留めることのできない存在となっています。

 

でもそれは、完全に押し流され、消えてしまうのではなく、

「私達、それぞれの、足元。地面に眠っているだけ。」なのだと思います。

「その埋もれた種」は、みなさんの心と、みなさんの住む風景の奥底にあります。

 

 

 

 

いろいろ書きましたが、最初の問いに戻りましょう。

 

「設計というしごと」は、「実を結ぶのが難しい」仕事だが、

イコール「報われない」という事ではない。

なぜ、そう言えるのかという問いでしたね。

 

 

答えは明白です。

「実を結ぶための種」は「すでに埋まって存在するから」がその理由です。

 

 

ですが、「設計には時間がかかります」。

 

 

なぜ時間がかかるかというと、

地面に埋まった種が芽を出すように、水をあげたり、耕したり準備が必要です。

 

 

 

 

 

じゃあ、はやく実を収穫したい人はどうするかというと、

埋まっている種とはお構いなしに、出来上がった製品を買うか、もしくは苗を植えます。

日本の多くの人はそうして、日々の生活のスピードをはやめています。

 

 

「種を見つけなくても(=設計しなくても)」家は建ちます。

でもそれは、自分だけの気に入った家を欲しい人にとって最善なのでしょうか。

『他の人がつくった価値観やオシャレに見えるイメージ』をなんとなく、

買っているだけかもしれません。

 

 

「種を見つけ・育てることなくては(=設計しなくては)」心の底から

「私の家だ」と思える満足感に辿り着くことは出来ないかもしれません。

何度も言いますが、

「種はすでにあなたの中にあります」が、芽を出すための時間が必要です。

 

 

 

いろいろな価値観があるので、一概にどんなプロセスが一番いい家づくりかと断言することは出来ませんが、

少なくとも、私たちが「設計する」建物は、「種を見つけ・育てる」ことでありたいと、時間を掛け、心を砕いています。

 

 

そんなことを日々考えながら、

今年も、大勢の個性的・魅力的な方々と「設計の楽しさを」共有出来ました。

このブログを読んでいただいている、未来のまだ見ぬお客様もありがとうございました。

 

来年1月21土・22日は見学会を開催予定です。

設計事務所について興味がある方、新築または改修工事のお考えのかたは

この機会に是非いらしていただければと思います。

 

 

小さな事務所ですが皆様の素晴らしい生活の一ページを創り出す事務所でありたいと思っております。来年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

ゆあさ

 

 

------------------------------------------------------------
■→ツイッター


ツイッター本年も思い出したようにツイぶやき中。ブログより手短かです。フォローも宜しくです。
大角雄三設計室(@osumiyuzo_archi) 


■→新築をお考えの方へ(WORKSをクリック)

 大角設計室の施工例紹介。ホームページの作品集(WORKS)をご覧ください。

パンフレットなどが必要な方は、送付先を大角設計室まで御知らせ下さい。
喜んで郵送致します。設計対象は、住宅から施設、店舗等です。
全国で仕事をしております。

 

 

 

 

 

推定の積み重ね

以前ブログで紹介していた津山市の改修工事についてです。

o-sumi.hatenablog.com

 

重伝建地区というのは改修する意匠には根拠が必要になってきます。

前にも書きましたが、街が重伝建になりたてということもあり

手探り状態で方針を決めていきました。

 

街全体で修景をするという制度ではありますが

一つ一つの家に歴史があり、その歴史を古写真や痕跡から元の形を推定する。

一事が万事、それをずーっと繰り返して、やっと街が昔の姿を現すんですね

気が遠くなる道のりです。

こういった昔の姿から

材料などから流通事情や経済状況など

意匠には土地柄や流行だとか

装飾には世相や流行なんかの

多様な情報を読み取れるのです。

 

また仕上をはがしてみると柱の埋め木のあとや、ほぞ穴

そんな痕跡を見ても古い建物の知識によって読み取れる情報には雲泥の差があります。

そのあたりは熟練の大工さんや、役所の担当者、もちろん大角にも意見を聞いて

より確からしい推定を積み重ねるしかないようです。

まだまだ修行中の身、いろいろな意見を聞かないと解けない謎もたくさんありますが

痕跡の一つ一つが確かに何かを教えてくれます。

 

そんなこんなでやっと決まった方針に向かって、

絶賛工事中です!

 

屋根の上で棟梁、社長と打合せ
上空5mは風が強い…

 

着工はまだかと手ぐすねを引いていた棟梁が

がつがつ進めてくれています。

 

打合せ終わり、お昼どきということもあって

お客さんの行きつけのお店でうなぎをご馳走になりました!

のけぞるほど美味しかったです

うなぎで付けた精、だし尽くさないと…!

 

うえにし

茶の湯探訪

最近一段と日が短くなってきました。

なんだか2時くらいで夕方みたいな気分になりますね。(笑)

 

さて大角設計室の新しい仕事で茶室を直すことになりました。

また茶室の仕事に関われて、楽しみです。

気を引き締めてまいります。

 

今回の茶室は裏千家表千家などメジャーな流派ではないので、

体系化されていない分、直す時の勘所を探らなければなりません。

 

そこで同じ流派で尾道にある茶室を見学に行きました。

茅葺で藪之内家の「燕庵」の写しとされる茶室です。

 

あんまり公開されていないそうなので役得でした。

 

写しとは言え尾道らしく、起伏に富んだ露地の上にっちょこんと乗る茶室

お寺の縁側から見ると全体が風景になり、

茅葺の屋根が農家小屋のようです。

建立当時はありふれていたであろう風景をミニチュア化して庭に取り入れる

 

侘び茶のこころがうかがえます。

 

待合からまっすぐ、シンメトリーな佇まい

 

しかしやっぱり茅葺の茶室はいいですね、と

計画の方向性を相談していきます。

 

写しと言いながら創作があちこちにちりばめられ、

ふむふむ、と謎解き気分で観察していきます。

 

昔の建物は今のようにどこでも均質というわけにはいかず、

建てる地域や材料一つ一つに丁寧な解釈をもって

この場所だからこその建て方をしているんだなと

写しだからこそ如実に見て取れます。

 

縁側で談笑するお施主さん

 

とても豊かな空間で、こんな風景が作れたらなと思います。

 

うえにし

生活を楽しんだ先にある30年



 

広島県の住宅のメンテナンスにやってきました。

 

私も事務所に入る前に完成した家なので

写真でしか、その存在を知らない家です。

 

そんな大角の初期のころの家がたくさんあるのですが

丁度、築20年から30年ほどになり、

世代交代で、親から子供世帯にバトンをつなぐべく

リフレッシュ工事の依頼が結構あり、出かけて行ってます。

 

 

今回は一部雨漏りがおき始めた場所の点検や、

漆喰の汚れや剥離などの傷みの対処、

建具の不調等々についての相談でした。

 

 

 

行ってみていつも思うことがあります。

 

それは「楽しそうに住んでいる」という事です。

 

 

ゆあさくんね、「この家は○○いいこともあるけど、△△は大変なのよ~。」と

住まい手は朗らかにおっしゃられます。

 

その言葉の端々には「どうだ、この家をすみこなしてやったぞ~っ!」という

長年の冒険を楽しむ船長のような、どっしりとした風格を感じます。

 

 

その感じを受けるたびに、設計者としては

とても嬉しく、いつも「参りました」と感服しています。

 

 

この家の玄関を見ると、「一日と数時間」のスパンで考えることと

「三十年」のスパンで考える設計の思考の重要性を感じます。

 

 

 

忙しい現代は、とかく「機能性・合理性」を求められます。

それらは「一日と数時間」のスパンではとてもフィットする設計となります。

 

でも、今日見た家はもう一つの

「三十年」のスパンで考える設計の思考が潜んでいると感じました。

それは「機能性・合理性と別に「「楽しみ」」が家にひそむ、設計の、チカラです。

 

 

設計者が如何に勇気をもって、「住まい手の楽しみ」を

デザインして行けるか。

それが、とても大切になるのだなと感じた一日でした。

 

 

 

ゆあさ

 

受賞報告。住まい手と喜ぶ。



 

「倉敷の町家」が倉敷市建築文化賞を受賞しました。

 

 

そんなこんなで、倉敷市役所で表彰式に参加してきました。

 

 

倉敷市では、市民のまちづくりへの意識高揚や建築文化を高めることを目的に

建築物として存在感があり、なおかつ、周囲への調和や配慮、

都市景観形成への貢献を基準に審査されています。

 

わたしたちの考える「民家」とはまさに、そういったモノであると思います。

 

建築はよく芸術だと言われますが、

正確には「社会的芸術」と呼ばれるべきものです。

 

住宅は確かに個人の物ですが、同時に町に住むひとびとにも風景として

影響を及ぼすものです。

そういった意味では、個人のものであり、同時に、みんなの物でもあります。

だから「社会的芸術」なんでしょうね。

 

 

 

 

でも個人的には、最近はこの「社会的芸術」という言葉は

大角設計の創っている住まいには適さないかなと思っています。

じゃあなんていう言葉がいいのかなってかんがえると

「社会的芸術」ではなく、

「社会的民芸」なのではないかなと思っています。

 

 

民芸とは思想家の「柳宗悦(やなぎむねよし)」が創った言葉ですが

一般の名もなき庶民が手掛けた日常雑記に美が宿るとの考えです。

 

「民衆の芸術」ではなくて

「民衆の工芸」のことをさします。

 

 

授賞式には、大角設計室から独立した平野さんもおられ表彰されていました。

 

さらに隣には、私達もお世話になっている工務店の社長。

 

 

 

 

さきほどの「民衆の工芸」を担うのは間違いなく

地方に根を張る目立たない、確かな技術を持つ職人たちです。

 

そしてそれを共に実現していくパートナーは

地方の設計事務所かもしれません。

 

 

忘れていけないのは、

そうした建物の最初の構想者である

住まい手が、勇気をもって私達に仕事を託してくれたからこそ

素晴らしい仕事が完成します。

 

そういった意味で、この賞は

「住まい手」「設計者」「工務店」の三者を顕彰していただける

素晴らしい賞だと思います。

 

今回の受賞も、「住まい手」が喜んでくださったことが

何より嬉しかったです!

 

 

 

奇しくも、倉敷は「民芸」の町です。

 

 

これから先も、私達やその他大勢の人と

こつこつと、コツコツと、ほそぼそと、

目立ちませんが、きらりと静かに光る、「民家」を

創っていけたらいいなと思っています。

 

 

ゆあさ

 

 

やっぱりすごいもの

東北出張です。

 

すっかり新米の季節になりました。

収穫間近の秋田県は、とても美しいです。

 

 

ずっと見たかった、水の中に建つ倉。「水板倉」と呼ばれるものです。

 

 

 

キーンと冷えた朝露に濡れた畦道をかきわけて、辿り着いたその先に

やはり、美しい民家がありました。

 

 

 

やはりという言葉は

「やはら」という古語が由来と言われています。

「やわらか(和か)」つまり、「そのままじっとしておく」という意味だそうです。

 

そこから転じて「変わらない様子、変化がないさま」を表した言葉です。

現在では「予想した通り」となるわけです。

 

 

「やはり、美しい」という言葉が、なんとシックリくる建物だろうと

しばし刻をわすれ見とれてしましました。

 

大角がよく言っているのですが

「古い建物をなおす場合でも、移築と現地再生は全然意味合いが違うンじゃ」。

 

 

その言葉の本当の意味をつかみ損ねていたのかもしれないと

あらためて教えてくれる、「やわらな風景」。

 

 

「そのままじっとしておく」ことでしか得られないものが

確かにここにはありました。

 

 

そんな設計を出来たらいいなと思っています。

 

 

 

ゆあさ

 

 

 

門をつくるモン

 

門を作っています。

 

門って最近の住宅ではあまり見なくなりました。

 

門とまではいかないけど、塀の延長に小さな勝手口みたいなものがあるのが

せいぜいでしょうか。

 

 

 

でももし、機会があれば門をデザインしてみてください。

 

門は「さあ、ここからは家の中に入っていきますよ・・」という

心を入れ替えるスイッチ的な心理的デザインや、

物理的デザインとしては、人の動きを止めたり、距離感を出したりという

役割もある、一度で二度も三度もおいしいデザインです。

 

 

 

門は家の格式を表したりもするので、材料も結構気を使います。

 

そんなこんなで、大工さんたちにとっては、花形の仕事になります。

特別な材種や、サイズ、組み方などをしますので

技量や経験、心構えまで透けて見える。そんな場所になります。

 

 

 

 

「こんな感じでええかのう?ゆあさ君。」

 

棟梁とわたしが会話している横で、若手大工も聞いています。

 

 

その時

「おーいい。そこの切れ端もってこい。いっかい加工してみろ」

と唐突に若手に伝えます。

 

 

任されたのは、屋根を支える先端部分の形状。

じつは中々ややこしいカタチをしているので、不安そう。(でも嬉しそう)

 

 

 

 

 

「あってますか?」

 

 

そう問いかける彼は、門んを刻むモンとしての面構えになりつつあります。

 

 

現場で立ち上げる時が楽しみです。

 

 

 

 

ゆあさ